D帰り道
美術館を出る時間が過ぎてしまった。もっとも、尾道駅での途中下車や広島駅前で路面電車を撮影する時間を計画に組み込んでいたので、1時間くらい長居しても大丈夫である。私は、計画案を作るときにいつもこういった“どうでもいい”計画を入れるようにしている。帰りは、近くのバス停まで職員さんが送ってくれるのだという。バス会社に電話をして、時刻まで聞いてくれた。 談笑していると、70歳くらいの男性が入ってきた。「おじいちゃんが帰って来た」と職員さんが言った。聞けば、造船会社の元重役の方らしい。カフェテリアのところに来て、職員さんからさっきのトラブルのことを聞くと、中国新聞を開きながら、「そりゃあ大変だったねぇ」と言った。「どこから来たの?」と聞かれ、「佐賀からです」と私が言うと、そのおじいさんは「佐賀から!」と驚くように言った。 おじいさん:実はね、私も以前佐賀に行ったことがあるんですよ。もうかなり前のこと……昭和32年に行ったのが最後だった。 私:佐賀には、どのような目的で来られていたのですか? おじいさん:石炭をね、住之江(すみのえ)という港から運び出していたんだよ。福富っていう村で飲んだこともあったなぁ。 私:住之江なら知っていますよ!国道の橋がかかっているところですよね?確か、芦刈っていうところですね。 おじいさん:芦刈は覚えていないけれど、住之江は確かだね。私の会社がここまで大きくなったのは、まさに佐賀県のおかげですよ。ありがとう。 おじいさんは、そう言って笑った。石炭が黒ダイヤと呼ばれた時代。田舎しか取り得が無い佐賀県も、かつて高度経済成長に貢献したということである。 私:いえいえ。その福富村は、その後福富町になって、最近の合併で白石町になりました。今ではレンコンの特産地で有名ですね。ところで、石炭と言うことは、杵島炭鉱のことですか? おじいさん:そう!杵島炭鉱!!いやあ懐かしいなぁ。久しぶりに行きたくなったなぁ。 私:杵島炭鉱と言うことは、大町や江北(こうほく)ですね。私も以前、そのあたりに住んでいたので、よく知っていますよ。 おじいさん:そう、大町。今、炭鉱関係で残っているものとかあるの? 私:私は今、佐賀市の方に住んでいるのですが、私がいた10年くらい前には、確か「炭鉱清算事業団」のような看板があったと思いますし、今でもボタ山(石炭を掘ったときに出る土を盛り上げた人工の山)が残っています。 職員さん:あら、ボタ山って(福岡県の)飯塚だけじゃないの? 私:いえ、大町にもあります。他にも、昔の炭鉱住宅街が残っているようですし、炭鉱関連のレンガ造りが残っていて、ギャラリーとして利用されているようです。聞いた話では、今でも当時石炭を運んでいた電車の跡が残っているようです。江北町の資料館には、当時の電気機関車に牽引された列車の写真がありました。 楽しい時間はあっという間に過ぎ、出発する時間になった。 おじいさん:いやあ、今日は本当に良い人に会った。もし良ければ、そういった炭鉱関連の写真を送ってくれませんか?もし、覚えていたらで良いから。私もいつか佐賀に行きますので。 私:分かりました。必ず送ります。ありがとうございました。 おじいさん:よろしくお願いします。こちらこそ、ありがとう。 職員さん:じゃあ、おじいちゃん、下まで送ってくるから。お留守番、よろしくね。 私と職員さんは、美術館を出た。9月下旬とは言え、まだまだ夏の日差しが強い。近くの草むらに、お地蔵様がたくさん並んでいた。面白いことに、一つとして同じ顔がないのだ。職員さんが車を出している間、2枚の写真を撮った。実は、この写真がこの3週間後、私に奇蹟をもたらすことになるのである。 職員さんの車に乗り、私が来た道とは別の道を通ってバスの通る道に出た。こちらの方が、近かったようだ。美術館から5分ほどで、「天神山」というバス停に着いた。そこの近くで降ろしてもらった。「今度、大学に入ってから、またいらっしゃい」「必ず来ます。ありがとうございました」……。そう言ってお別れとなった。最初、展示されていなかったのは納得の行かないものだったが、こうして良い思い出を作れたことは、結果として行って良かったと思う。そして、おじいさんとの約束は、何としてでも果たさなければならない。私の話を聞いて喜んでもらえただけで、私はそれで満足である。