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青い列車よ、永遠に――「はやぶさ・富士」、2009.3.13ラストラン

2009年(平成21年)3月のダイヤ改正で、ついに最後の九州行き寝台特急「はやぶさ・富士」が廃止されました。

東京駅に到着した寝台特急「はやぶさ・富士」。2006年4月3日・東京駅で撮影。

 

―寝台特急「はやぶさ」「富士」略史―

 1958年(昭和33年)。この年、何があったのかと言うと、おなじみのものでは、日清食品が世界初のインスタントラーメンである「チキンラーメン」を発売したり、東京タワーが完成したりしている。まさに映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の時代である。鉄道でも動きがあり、10月に初のブルートレイン・20系客車を使用した寝台特急「あさかぜ」が運行を開始、11月には東海道本線東京―大阪間に国鉄初の電車特急・151系「こだま」が登場した。次々に新しい列車や車両が登場する中、この列車も産声を上げた。寝台特急「はやぶさ」である。

 運行開始当時は、いわゆるブルートレインではなく、一般型の車両を使用しており、運行区間は東京―鹿児島間(鹿児島本線経由)だった。ブルートレイン(20系)となったのは1960年(昭和35年)で、同時に運行区間を経由はそのままで東京―西鹿児島(現:鹿児島中央)間に改めた。

 一方、1964年(昭和39年)には寝台特急「富士」も登場した。こちらは、寝台特急「みずほ」から分離して誕生したものであり、名前は東海道新幹線開業で消滅した電車特急から引き継いだような形だった。運行開始当初から20系だった。最初は東京―大分間の運行だったが、翌年に東京―西鹿児島間(日豊本線経由)となった。

 その後、両列車は同じ東京―九州間を走る寝台特急として活躍。途中、運行区間の変動や24系客車への置き換えなどが行われたが、列車名自体は存続した。

 ところが、新幹線や航空路といった高速交通網の発達で乗客が減少。運行区間はどんどん短くなり、平成に入って食堂車も廃止された。同僚たちは次々に廃止・減便され、次第に九州発着の寝台特急が数を減らしていった。2005年(平成17年)には、寝台特急「あさかぜ」「さくら」が廃止され、何と「はやぶさ」と「富士」は東京―門司間で併結という形をとることになった。なお、1999年(平成11年)に「さくら」の佐世保行き編成が廃止された際、長崎行き「さくら」(14系)と「はやぶさ」(24系)が、東京―鳥栖間で併結運転を開始した。この時、車両共通化によるコスト削減のため、14系と24系を併結した状態で「富士」にも同じ編成を使用した。その後、「さくら」の廃止で「はやぶさ」「富士」ともに、「さくら」と「富士」編成で使われていた14系が転用された。

 2005年(平成17年)以降、東京―九州間唯一の定期寝台特急となった「はやぶさ・富士」。それぞれA寝台1人用個室1両、B寝台1人用個室1両、B寝台開放式4両の計6両で運行された。併結運転となる東京―門司間は、昔と変わらぬ長編成の姿で走ったが、門司以西では6両という寂しい編成だった。2008年(平成20年)3月には、京都―熊本・長崎間の寝台特急「なは・あかつき」も廃止され、東海道・山陽本線を一貫して走るブルートレインは「はやぶさ・富士」だけとなってしまった。

 車両老朽化もあり、ファンや往年の利用者は、「いつまで残るのか」「電車化や区間短縮でも良いので存続の道はないのか」と注目した。だが、「なは・あかつき」廃止前には、一部で「はやぶさ・富士」の廃止を示唆する報道が行われ、ついに九州行き寝台特急は終焉を迎えることとなった。

 廃止間際になると、例によってファンや廃止を惜しむ人々が駅や沿線に押しかけ、写真を撮ったり、手を振ったりした。特に「九州行き寝台特急が全滅」という事実は、二度と地元でブルートレインが見られないことを意味し、その過熱ぶりは今までよりも強かったように感じた。

―変わるもの、変わらぬもの―

 私は平成生まれだが、このわずか20年余りの間だけでも時代がかなり変わったと思う。事実、私が小さい頃は、まだ「さくら」も「あかつき」も単独編成で東京や関西と九州を結んでいたし、長崎本線の特急と言えば485系レッドエクスプレスが主力だった。だが、もうそれらは走っていない。20年ごときで時代の変化を感じていては、私より年上の方に怒られてしまうかもしれないが、これが正直な感想である。冒頭で述べた東京タワーも、現在東京都内に建設中の新しいタワーが完成すると、電波塔としての役目を終え、撤去される可能性があるという。

 一方で、変わらないものもある。日清食品のチキンラーメンは、味こそ多少変わっていると思うが、世代を超えて食され、発売当初はなかったであろう大型スーパーやコンビニでちゃんと生き残っている。

 時代が変わっても、その地位を占めていられる重要なポイントは、「世代を超えて」という点だと思う。

 今回廃止された寝台特急「はやぶさ・富士」に乗りたいと言う人は、大人の世代だけでなく、実を言うと私が通っていた高校の同級生にも結構いたし、「まだ寝台特急が走っている」という認知度も決して低くはなかった。寝台特急は「世代を超えて」乗りたい列車であることに変わりなかったのだ。だが、一方で効率面が重視される今、旅行で寝台特急を使ったという話はあまり聞かない。たいてい飛行機や新幹線である。寝台特急に乗りたいと言う大人の世代も「忙しいし、割引が飛行機ほどない。時間がない」という意見が大半だろう。何だか矛盾しているようにも見えるが、各個人とその集合体である社会の間に不本意なずれが発生してしまっているのである。「ゆっくり旅をしたい」と思っても、「だけど、会社があるし、今度は出張で取引先にも行かねば……」という、個人の力ではどうにもならない板ばさみ状態に多くの人々が陥っている。それが現代日本なのだと思う。

 変わるもの、変わらぬもの。結果として、「はやぶさ・富士」は、人々の「乗りたい」という気持ちとともに、変化し続け、急ぐことを強いる社会の波に飲み込まれて廃止されてしまった。その社会の波には、効率化や高速化に突っ走るJR各社も含まれる。もし、JR各社が「風情」や「旅情」といった“遊び心”を理解していたなら、と廃止された今でも思う。しかし、もう遅い。2009年(平成21年)春のダイヤ改正では、安旅の代表とも言える、あの「ムーンライトながら」「ムーンライトえちご」の臨時化も行われた。ここまで来ると、日本から寝台特急や夜行列車が消える日が、そう遠くない未来にやって来そうな気がしてならない。

 だが、今までに寝台特急や夜行列車に乗ったことがある人の多くは、たまたま相席になった見知らぬ人と明かした夜や、車窓を彩る夜景に感動し、プライスレスな思い出とともに列車を降りたはずだ。おそらく、寝台特急や夜行列車に乗らなければ体験できないこの感動は、時代がどんなに変化しても、むしろ変化すればするほど、「変わらないもの=一生忘れられないもの」になっていくのだと私は思う。

青い列車よ、永遠に――「はやぶさ・富士」、2009.3.13ラストラン写真館

★このページでは、運行最終日やその直前の様子を中心に掲載しています。それ以外の写真や車内の様子は<こちら>をご覧ください。

3月12日(木)

夕方の鹿児島本線を上る「はやぶさ」。2009年3月12日・鹿児島本線弥生が丘駅で撮影。

走り去る寝台特急「はやぶさ」。九州で晴れた夕方を見られたのは、これが最後だった。2009年3月12日・鹿児島本線弥生が丘駅で撮影。

3月13日(金)

雨上がりの鳥栖駅に到着した最終の上り「はやぶさ」。この後先行列車の事故で東京到着が大幅に遅れた。2009年3月13日・鳥栖駅で撮影。

さらば上り「はやぶさ」。2009年3月13日・鳥栖駅で撮影。

3月14日(土)

最終下り「はやぶさ・富士」。事故や悪天候で約2時間遅れて長府駅を通過した。2009年3月14日・山陽本線長府駅で撮影。

本州に別れを告げて、下関を発車する「はやぶさ・富士」。2009年3月14日・下関駅で撮影。

発車を待つ「富士」。2009年3月14日・門司駅で撮影。

最終「富士」の最後尾はスハネフ14−6だった。2009年3月14日・門司駅で撮影。

提供写真

東京駅における廃止間際の「はやぶさ・富士」の写真をhiroshi abe様に提供していただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

車両基地から客車を回送した後、下り側先頭へ移動する機関車。

ファンや別れを惜しむ人でごった返す東京駅10番ホーム。

2009年(平成21年)2月22日の様子。これだけ人々に愛着を持たれた列車が、過去にあっただろうか。

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