D最後の朝
列車は、ネオンの輝く都会の谷間でどんどん加速する。列車にとっては、何十年も見てきた光景だろう。変化し続ける東京。線路の彼方にある九州の人間にとって、東京は常に憧れの街である。それだけに、毎晩東京と九州を結んだ「はやぶさ」「富士」は、まさに憧れの列車だったのである。その憧れも、もうすぐで潰えてしまう。 横浜駅を出てしばらくしてから、さっき買った弁当を開けた。名前は「浅草今昔」。「復刻唐揚弁当」とラベルにあるから、昔も同じような弁当を発売していたのだろうか。煌めく車窓を見ながら、最高のひと時を過ごした。 食べていると、突然車内放送のオールゴールが鳴った。まだ熱海まで時間がある。何だ?と思っていると、「横浜市★★区よりご乗車の▽◆様、▽◆様。至急ご家族へご連絡くださいますようお願いします」という変わった放送が流れた。車内連絡の取り次ぎもしなければならないとは……。車掌さんも大変である。 富士駅を発車してすぐ、突然「お前じゃ話にならん!!子供に変われ!!!!」と意味の分からない怒鳴り声が聞こえてきた。近くの部屋で、誰かが電話口の家族と喧嘩しているらしい。もしかすると、さっきの放送と何か関係があるのでは……などと思って聞いていたが(聞くなと言われてもそのくらいうるさかったもので)、本当に迷惑な人間と運悪く乗り合わせたものである。この世にも奇妙な電話は15分くらい続き、いつの間にか静かになっていた。ただ、いくら個室車に乗っているとは言え、怒鳴り声を出されたら、当然周りに響くことくらいは分からないものだろうか。大の大人が、実に情けない。 ちょうどその怒鳴り声が響いていた頃、そのやかましさとは対照的に、車窓には月明かりに照らされて、白くぼんやりと静かに佇む富士山が見えた。カメラで撮影できるほどの明るさではなかったが、輪郭ははっきりしていて、もし昼間だったらきれいに見えたことだろう。 列車は、夜の東海道本線をどんどん下って行く。街から外れると暗闇が車窓の大部分を支配するのだが、時折パァァァッと明るくなる。駅を通過しているのだ。突然訪れる光の世界。だが、すぐに再び闇の世界へと戻って行く。 静岡駅を発車してしばらくしてから、「おやすみ放送」が始まった。停車駅や就寝時の注意事項などが、細かくアナウンスされる。ただ、放送によれば盗難事件が時々発生しているという。確かに、特にB寝台解放式は、防犯上無防備すぎるが、それにつけこんで盗みを働く者がいるとすれば、寝台特急に対する営業妨害であり、冒涜だと言っても過言ではない。そのような事件が起こったために、「寝台特急=犯罪に遭いやすい乗り物」というイメージを持つ人が少なからずいるのではないだろうか。 おっと、携帯電話の電池が無くなりそうだ。コンセントがないか探したところ、意外にも通路にあった。しかも、私の個室の目の前。携帯電話は、カーテン収納部分のカバーの上にちょうど載った。ただ、盗難の危険があったので、ずっと見張っていなければならないのが難点だ。ドアを開けて監視していると、車内巡回中の車掌さんが「部屋の中にもコンセントがあるよ。荷物棚のところに」と教えてくれた。確かに通路上にある荷物棚にコンセントがあった。だが、あまりにも奥にあって手が届かない。何でこんなところにあるんだろう……。やむを得ず、通路のコンセントを使うことになった。 ごろんと横になって、夜空を眺める。線路際の電線が生き物のように波打って流れて行く。ああ、これで寝台特急「はやぶさ・富士」の車内で夜を過ごすのも最後かと思うと、寂しい気持ちになった。この貴重な貴重な時間を大切にしたい。寝たいけど、寝たら車窓が見られない。起きていると、せっかくのベッドで寝ることができない。ああ、どうしよう……と思っているうちに、うとうとしてしばらく寝てしまった。2009年(平成21年)2月8日(日)
起きると、やけに静かだ。どこかの駅に停車しているらしい。駅名表示板を見れば「きょうと」とあった。もう京都まで来ているのだ。そう言えば、今回受験した3校のうち、2校は京都市内にキャンパスがある。もしかすると、京都駅が私の家の最寄り駅になるのかもしれないなぁ……などと思っているうちに、また寝てしまった。 再び目を覚ますと、また静かだ。今度は大阪駅だった。だが、既に日付も変わっており、ホームには誰もいなかった。 次に起きた時は、まだ暗かったが、時刻は既に午前5時を回っていた。定刻通りであれば、既に広島県内に入っているはずである。案の定、しばらくして広島駅に到着した。6時を過ぎると、予定通り「おはよう放送」が始まった。7時前になるとだいぶ明るくなってきた。 ところが、徳山駅の手前でなぜか徐行運転。徳山到着が3分遅れた。しばらくすると、朝もやの中から、太陽が顔を出した。春が近づいていることを物語るようなピンクの朝だった。だが、本格的な春がやって来る頃に、この列車は姿を消す。 徳山駅から乗った車内販売のおばちゃんがやって来た。だが、私が財布を探している間に行ってしまい、後続の車両まで行って何とか購入できた。買ったのは、「徳山 幕の内」(1050円)。これがおそらく、寝台特急「はやぶさ・富士」の中で食べる最後の食事になるだろう。一生、記憶に留めておくために、味わって味わって食べた。 下関到着前から、車内が騒がしくなってきた。通路を見ると、何と既に大勢の人がドア付近に集まっているではないか。どうやら、機関車の付け替え作業を見に行く人たちらしい。私ももちろん作業を撮影するので、列の後ろに並んだ。列車が下関駅に着き、ドアが開いた瞬間、全てのドアから一斉に乗客が出てきた。そして、やはりそのほとんどが機関車の方へ向かった。私もその中に混ざって行く。 機関車付近では、到着前から既に待っていた人も多く、かなり混雑していた。日曜日ということもあるのだろう。ちょうど隙間があったので、そこに入れてもらって私も撮影を開始した。 遅れが発生していたため、EF66形機関車は、客車から切り離されるとすぐに離れていった。入れ替わりにEF81形が入線。機関士さんは、窓から顔を出し、係員の誘導に従って慎重に作業を行った。そして、ガチャンという音とともに第一段階が終了した。そして、係員数名がホースや連結器をきっちり固定する作業を開始した。 発車を予告するアナウンスが流れたので車内に戻る。個室に戻ってしばらくすると、ゴトリと音がしてゆっくり動き始めた。いよいよ九州である。関門トンネルを抜け、まもなく門司駅に到着した。門司駅でも機関車の交換を行うので、車外に出て機関車付近へ。ただ、機関車を2回も付け替えるのは結構面倒な作業であり、停車時間が長くなるので所要時間も長くなる。また、機関車付け替えの最中は、ホームが使えないので、他列車のダイヤを組みにくい。本州区間は直流電化、下関―門司間で電化方式が転換され、門司以西の九州区間は交流電化されている。このため、3種類の機関車が使用されているわけだが、こうした手間も、JRが寝台特急を廃止しようとする原因なのだろう。 さて、まずEF81形が切り離され、回送された。そして、奥の方でスタンバイしていたED76形が、入れ替わりで入って来た。寝台特急が九州から無くなれば、このED76形はどうなるのだろうか。JR西日本のジョイフルトレインや快速「ムーンライト九州」が、九州に入って来た時も活躍していたが、12系「TABIJI」は既に無く、「ムーンライト九州」もこの春は運転されなかった。JR貨物に売却されるか、それとも廃車か。それとも、まさかの時のお助けマンとして、今後もJR九州所属で留まるのか。その動向が気になるところだ。 連結作業が完了する前に車内に戻った。「はやぶさ」が「富士」より先に発車した。鳥栖までの停車駅は、残すところ小倉と博多だけになった。通路に出て車窓を眺める。温かな日差しが車内を照らす。私に春はやって来るのだろうか。ずっとそんなことを考えていた。というのも、2月10日〜18日にかけて、試験結果が次々に発表されるのだ。これからもドキドキの毎日が続く。果たして耐えられるのだろうか……。 最後なので、車内を見回ることにした。機関車を間近で見ようと、先頭の車両に行ったら、車内販売のおばちゃんが作業をしていた。おばちゃんに承諾をもらって、ワゴンを撮影させてもらった。 ちなみに、個室のカギはこちら。降りる前に車掌さんが回収にやって来る。板の部分は、木製やプラスチック製など、いろいろあり、シールはおそらく簡単にプリントして貼っただけのものだろう。この他、車内の様々なところを「記録」として細かく撮影したが、このページでは割愛したい。 博多駅に着いた。ここでは、多くの乗客が降りて行った。車内は幾分静かになった。私も降りる準備を始めた。遅れはいつの間にか回復され、ほぼ定刻で鳥栖駅に到着しそうだ。鳥栖駅到着を告げるアナウンスが流れ、列車が減速を始めた。いよいよ降りる時が来た。廃止前にもう1回乗るかもしれないが、その時は立席特急券を利用することになるだろう。夜行列車として「はやぶさ」に乗ったのは、これが最後になった。軽く揺れた後、列車は鳥栖駅に到着した。 わずか1分足らずの停車で、「はやぶさ」は鳥栖駅を発車していった。最後尾車両では、何人かの乗客が集まって、ビデオやカメラで撮影していた。さようなら、「はやぶさ」。 佐賀までは、各駅停車で帰った。もちろん、817系だ。旅の最後が、個人的にあまり好きではない817系というのは残念だったが、特急料金で300円取られるよりは……と思って我慢した。 駅までは自宅から迎えに来てくれた。寝ながら帰って来たとは言え、さすがに疲れたので、この日の午後は寝たり起きたりごろんとしたりの繰り返しだった。まだ私立大学や国立大学の試験が残っているのに……。エピローグ
長い長い6日間だったが、試験や「はやぶさ」での往復を含め、たくさんの貴重な経験ができた。ちなみに、九州に帰ってからも私立大学と国立大学を各1校ずつ受けた。 私立大学への進学が第一志望だったが、国立大学も受けることにしたのは、私大の試験が始まる前に受験料を納めていたので、「せっかくだし、ひとつの選択肢として受けてみたら?」と、周りや担任の先生に促されたからである。私が受けた国立大学は九州内にあり、試験前日の2月24日に往路で「はやぶさ」の立席を利用した。これが最後の「はやぶさ」乗車になった。私が受けた学部の試験は、国語と英語のみだったが、多くが記述式という「頭と時間を使う問題」だった。数日後、この国立大学の合格発表が行われ、私は合格していたのだが、この時点で私立大学の1校へ進学することが決定しており、アパートも押さえていたので、辞退することになった。ただ、比較的定員通りに学生を取る国立大は、辞退者が出ると追加合格を発表するケースが多いため、おそらく誰かが新たに合格したのだと思う。辞退するのは心苦しかったが、空いたところに本当に行きたかった人が入るのなら、私にとってもそれが嬉しい。 今の高校生の保護者世代や進学校の先生は、国立・公立大学への進学を勧めるケースが多いようだが、私は必ずしもそう思わない。保護者世代からすれば、家計的な事情から、学費が比較的安い国公立大学への進学を勧めるのは理解できる。私の家も決して裕福ではないし、奨学金を借り入れて何とか私立大学へ行けそうだというくらいである。それでも、私は雰囲気と取り組みに魅せられて、私立大学を高い志望に据え、両親もそれを許可してくれた。無論、最終的に何百万円にもなる奨学金は、私が働いて返すという賭けに近い条件付きだ。 一方、学校側の事情として、「自分の学校からどれだけの生徒が国公立大学(又は難関私大)に進学したか」という点が、先生や学校の評価・実績の一つに使われていると聞いたことがある。これは、あくまでも“噂”であり、全ての進学校がそうとは言えないことを断わっておきたい。私の母校も進学校だが、まさかそんなことはあるまいと信じているし、最初はビリから数えた方が早かった私の成績を引き上げ、志望校に導いてくれた母校の先生方には、本当に感謝せねばならないと考えている。 しかし、噂が事実であれば、少しでも自分のところをよく見せようと、各学校の間で競争が始まる可能性も否定できない。いや、数年前には大阪の私立高校が受験料を肩代わりして、生徒にいくつもの私立大学を受けさせて実績作りをするという事件があった。もはや国公立、私立大学の受験を問わず、既にこの動きが始まっているのである。今後、生徒の志望校が学校の都合で変えさせられたり、学校側が模試のデータをもとに強制するといった事例も出てくるのではないだろうか。自分の志望が学校の考えと一致すれば問題ないが、全てがそのような事例であるはずがない。自分が本当に目指している大学とは違うところに行っても、おそらくモチベーションが上がらないと思う。結果、大学を去るということにはならないか。一人の人生が狂うことにもなるかもしれない。私が心配するのはそこだ。もし、そのようなことをしている高校があれば、今すぐやめるべきだし、これから来年の春に向かって走る受験生は、確固たる意志を持って、三者面談に臨むのが良いと思う。そのために、受験生は大学が配布する資料や公式サイトを熟読し、本当に自分が学びたいところは何なのか、どの大学に行けばそれが学べるのか、という点を予め把握しておく必要がある。 さて、4月から九州以外の街で暮らすことになったが、楽しみより不安要素がむしろ多い。ちゃんと朝起きられるのか、料理ができるのか、友達はできるのか。何とか乗り越えて、本当に「住んで都」にするしかない。