Dあれから3ヶ月が経ちました

2007年(平成19年)7月1日、その日は私にとって大変重要な日になった。

 地下鉄で博多駅に戻り、JR鹿児島本線ホームに向かった。これから私は福岡県を一周して佐賀に帰ることにしている。博多駅から準快速の門司港行きに乗った。

 古賀駅で途中下車した。この駅で降りたのは、今年4月1日を持って廃止された西鉄宮地岳線西鉄古賀駅の訪問のためである。駅からは徒歩で旧西鉄古賀駅に向かった。

 西鉄古賀駅の駅舎は残っていた。しかし、入り口はベニヤ板でふさがれ、駅名の入った看板は取り外されて無残な状態だった。

 駅西側の敷地には、枕木が山積みになっていた。ホームは残っていたが、やはり看板類は撤去されていた。

 架線や架線柱は撤去されていたが、レールは残っていた。もう電車が走ることはないだけに、その姿が錆びた哀れだった。

 西鉄古賀駅から少し離れたところにある信号機は、「西鉄古賀駅前」の標識のままだった。

 古賀駅からは、813系の快速門司港行きに乗った。車内は空いていて、好きな座席に座ることができた。

 折尾駅で筑豊本線(福北ゆたか線)の817系1000番台に乗り換え、直方駅で列車を降りた。

 平成筑豊鉄道の乗り場には、新型車・400形が停まっていた。

 直方駅からは、813系の各駅停車に乗り、飯塚駅で途中下車した。813系は、快速先行のためにしばらく停車した。飯塚駅は初訪問で、駅前で駅舎を撮影した。

 ちょうど博多行きの817系快速が発車していくところだった。炭鉱の象徴とも言えるボタ山と一緒に1枚し、813系に戻った。

 桂川駅では、原田行きのキハ31形に乗り換えた。最近まで、原田―桂川間の筑豊本線(通称:原田線)は、キハ40形が走っていたが、宮崎や大分から転属してきてキハ31形が走るようになったのだ。今回乗ったのは、キハ31−1。つまり、トップナンバー車である。車内の座席は、赤いモケットシートだった。

 まもなく、原田行きは桂川駅を発車し、しばらく行くと篠栗線と分かれた。田植えが終わってまだ半月なので、田んぼには水が張られ、日光がきらりきらりと反射していた。

 列車はどんどん山の中へと入って行った。1日わずか数往復しかないためか、乗客の数はそこそこあって、途中駅で数人ずつ下車した。

 筑前山家駅に着く直前、右手に路面電車が見えた。かつて西鉄北九州線で走っていたものだが、色が塗り替えられ、復元されていた。よく見ると、電車の隣には古い西鉄バスもある。

 17:02、列車は定刻に原田駅に到着した。車内を撮影して列車を降りた。

 次の鳥栖方面行きが来る間に、787系を撮影した。

 鳥栖行きは811系P5編成だった。

 電車は、夕方の鹿児島本線を下った。

 17:27、電車は鳥栖駅に定着した。

 鳥栖駅で17:33鳥栖発の肥前大浦行きに乗り換えた。発車数分前の割には空いていて座席に座れた。

 この日は、まさに話題満載の1日だった。特に、大鉄道イベントが同じ場所で建て続けに見られるのは、そうそうないことである。本当は485系「かもめ」の乗車やN700系をゆっくり撮影したかったのだが、「アタック25」の予選があったから仕方ない。西鉄古賀駅の訪問という目的もあった。今回は都会の鉄道を中心に乗ったので、次回はローカル線の旅に出ようと思う。ただ、資金や時間の関係で無理かもしれないが。

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