B瀬野深江―安徳間にて

2007年(平成19年)11月11日に、長崎路面電車まつりに行きました。その後、島鉄バスと島原鉄道を使って島原半島を海沿いに一周して来ました。

 10分ほどの乗車で、瀬野深江駅に到着した。私のほかに、同じ目的と思われる男性が1人降りた。

 駅のそばの踏切は、遮断機も警報機もない簡単なものだったが、木でできた標識や坂道の先に海が見えるというコンディションを気に入り、1枚撮ってみた。

 瀬野深江駅から国道を通って歩くこと10分。水無川のところまで来た。

 あたりをうろうろしながら、良い撮影地はないかと探した。本当は雲仙普賢岳をバックに撮りたいところだが、夕方に差し掛かるころなので、逆光になってしまうことが判明。いろいろ考えた結果、反対側の有明海をバックに撮影することにした。

とは言え、次の列車が通過するまでにはまだ時間があったので、付近を散策した。かつて島鉄で活躍したというディーゼル機関車が静態保存されていた。普賢岳をバックに1枚。説明板によれば、この付近の線路を復旧させる際にも活躍したという。

 遠くで列車の警笛が鳴ったと思ったら、そう時間を置かずに列車が来た。水無川橋梁の真ん中まで来たところで1枚撮ったが、列車が若干ぶれてしまった。でも、後ろに海が見えるというのはなかなか良い組み合わせである。機会があれば、もう一度チャレンジしたい。

 今度は安徳駅に向かう。もちろん徒歩だ。途中、更地になっているところの中を歩いた。区画のそれぞれに「売り地」という看板があった。どうやら、災害後に復旧目的で土地を造成したものの、入植者や買い手が見つからず、そのままになっているらしい。「保留地番号」という文字を見て、20年近く前の傷跡が未だに強く残っていると感じた。

 橋を渡った。道路はそれほど広くないし、川幅もつり橋にするほど広くない。自動車はあまり通っていないようだった。あまりにも立派すぎだと感じた。災害の復旧とは言え、税金の無駄遣いではないだろうか。

 安徳駅に着いた。高架駅で、ローカル色の強い島鉄には似合わない完全コンクリートだった。廃止後は、この駅もコンクリートの塊になってしまう。

 日が沈もうとしていた。風景は、かつての悲惨な災害を思わせないものだったが、普賢岳が牙をむき出せば凄まじいことになる。穏やかさと災害の恐ろしさが、隣り合わせの風景のように見えた。

 諫早行きの列車に乗り込んだ。

 夕方だったが、車内は空いていた。

 南島原駅では、行き違いのために数分間停車した。その間、私は進行方向右側のボックスに移動した。この後は、海がよく見える区間だからである。島原駅で、家族連れが同じボックスに座った。私は疲れていたので、だんだんとまぶたが重くなってきた。起きると、海のよく見える駅として知られる大三東(おおみさき)駅に停まっていた。

 終点の諫早に着いた頃には、既に真っ暗になっていた。

 一旦途中下車して、コインロッカーに預けていた荷物を受け取って再び入場。乗り換えの電車は、18:37発の鳥栖行き。佐賀までちょうど2時間の乗車となる。編成は、415系1500番台だった。電車は、湯江駅で列車の行き違いや追い越しなどのために数分間停車した。

 小長井―肥前大浦間で、乗客数を数えてみた。時間帯が時間帯なので、全体で10人ほど。そもそも、なぜロングシート車を走らせるのかが疑問であるほど少なかった。私の乗っていた最後尾車両にいたっては、合計2人だった。

 電車は肥前大浦駅に着いた。車内放送によれば、列車の行き違いを行うという。せっかくなので、ホームに出て駅名表示板を撮影した後、すぐに車内に戻った。

 しかし、なかなか対向列車が来ない。車内放送が入った。それによれば、対向列車が遅れているという。それなら、と思い、駅舎の撮影に行くことにした。車掌さんにあとどのくらいで発車するのか尋ねると、「あと5、6分は大丈夫だと思いますけどね。あ、でも発車するときは笛を鳴らしますので、撮影に行っても大丈夫ですよ」と言われた。なので、地下通路を通って駅舎の撮影へ。肥前大浦駅の駅舎は小さかった。暗かったが、何とか1枚撮影して電車に戻った。

 20:37、電車は定刻に佐賀駅に到着した。長崎の「路面電車まつり」は、管理人の受験勉強のために2008年(平成20年)は行けないだろう。島原鉄道は、廃止前にひとまず全線制覇できて良かった。機会があれば、もう一度全部乗りとおしてみたいと思う。

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