@かくかくしかじか……

わけあって、私は2007年(平成19年)10月13日・14日に東京方面に用事があり、開館初日の鉄道博物館に行ってきました。

 こういうこともあるものだ。私の応募した作文が、早稲田大学125周年記念のコンクールに入賞し、2007年(平成19年)10月13日に同大学の「国際会議場井深大記念ホール」(東京都新宿区の大学構内)で発表することになったのだ。飛行機往復利用で一泊二日の日程だが、旅費は大学側が全て負担してくれる上、佐賀空港発着の飛行機が少ないおかげで(?)、14日は半日“遊べる”(=自由行動)というものだった。中間試験真っ只中という、成績を考慮すると最悪のコンディションだったが、作文をすらすら読めるくらいに練習し、ついに出発の時がやって来た。

2007年(平成19年)10月13日(土)

 本当は寝台特急で東京に行きたいところだが、大学側が旅行会社に頼んで全て手配してくれたので、佐賀空港発の飛行機利用となった。今回、佐賀から早稲田大学に行くのは私を入れて中高生4人だが、これは同大学の創設者である大隈重信が佐賀県出身であるから、という。このほか、同時に作文を発表するのは、同大学の系属校の中高生など、十数名という。それにしても、明治初期の佐賀というのは、やはり日本で一番進んだところだったのだろう。偉大な郷土出身者に感謝である。しかし、明治初期が過ぎると、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の出身者が実権を握り、佐賀の色はだんだん薄くなって行く。今となっては、優秀なリーダーが出てくるどころか、民主主義の国において民意を反映しない愚かなリーダーが居座っている。やっぱり、今の佐賀はダメである。

 飛行機は朝一番なので、自宅を5:45に出発した。空港に着いた頃には、旅立ちに相応しい美しい朝焼けが東の空を染めていた。なお、今回は私の父も同行した。

 

   搭乗時刻までには全員集まった。引率には、佐賀市関係者や教職員の方もいた。エスカレーターを昇り、荷物検査場へ。私が飛行機嫌いである一つの理由は、この荷物検査場である。飛行機は、私のような庶民がそう多く乗らない(はず)なので、金属を探知するゲートを通過する際は、かなり緊張する。ここで何らかの理由で引っかかったら、周りに人がいる中で恥をかくことになる。

 体はゲートを難なく通過したので、ホッとしていたら、手荷物検査担当の検査官に呼び止められ、「はさみが入ってますね」と言われた。はさみ……?あ、手荷物のバッグに入れておいた筆箱!?と思って、バッグを開け、筆箱の中をのぞくと、ありましたありました……。しかし、私だけでなく、同行する他の発表者も全員「はさみ」で引っかかっていた。検査官から「はさみは処分しますか?それともお帰りになった時に受け取られますか?」と言われたので、受け取ることにし、私が代表で四人分のはさみを封筒の中に入れた。

 搭乗口前の待合室には、佐賀空港とは思えないほどの人が搭乗を待っていた。そして、6:25くらいから搭乗が始まった。私の席は、父と隣りあわせで一番後ろ。このANA東京行きは、3列&3列シートだが、尻すぼみになる一番後ろの席は2列&2列になっていた。ちなみに、私が飛行機に乗るのは、沖縄修学旅行以来2回目、つまり、飛行機で東京に行くのは初めてである。

 機内放送によれば、この便は満席なのだという。満席と言えば、かなりの人数が乗っているようにも思えるが、何と言っても中型機なので、定員は150名ほど。羽田空港の拡張に合わせて、東京行きの増便も予定されているが、羽田空港の貴重な発着枠をこのような小さな飛行機に取られるのだから、本当は全日空にとって不都合なことであるに違いない。

 6:45、定刻に飛行機は搭乗口を離れた。そして、滑走路に入って右に曲がって西進し、一番先のところで転回した。転回が終了してすぐ、飛行機は一気に加速し、離陸した。そばの有明海の干潟やこれからノリ網の手入れか漁に行くものと思われる漁船が見えた。遠くにノリ網が格子状に並び、その奥には雲仙普賢岳がかすんで見えた。飛行機は東進しているので、有明海はだんだんと遠ざかっていった。眼下には、鹿児島新幹線の高架橋が白い線になって遠くまで続いていた。奇しくも、父が搭乗する際にサービスでもらった朝日新聞には、鹿児島新幹線の新大阪直通が決定したとの見出しが出ていた。その記事によれば、鹿児島新幹線全通に合わせてN700系ベースの新型車両を投入するという。鹿児島新幹線は、フル規格(=全線踏切なし)なので、安全性は山陽新幹線と変わらない。

 一方、長崎新幹線の推進派も新大阪直通を計画している。だが、こちらは踏切が多く存在する在来線を走る。通過駅にはホームドアもないし、無人駅もある。鹿児島新幹線よりも安全面で格段に劣るのは明らかだ。しかし、推進派は「鹿児島新幹線が直通できるのだから、長崎新幹線も可能ですよ」と主張している。安全面での条件に格段の差がある鹿児島新幹線を直通可能論の根拠として据えるのはあまりにも乏しすぎる。そもそも、私がJR西日本に取材したところ、この計画についてJR九州との会合が持たれたことは一度もないという。推進派のいうことは、「0」であるものを「1」であると言っているようなものである。

 さて、九州山地を越えつつあるところでベルト着用サインが消えた。眼下は、山々が連なり、その間のわずかな隙間には田んぼが点在していた。しかし、まもなく雲に隠れてしまった。

 豊後水道に入ってしばらくすると、四国の佐多岬半島が見えてきた。海面が朝日に照らされ、きれいだった。

 四国山地の谷間には、雲が鋳型に流し込まれたようになっていて、少し神秘的だった。おそらく、その雲の下にも町があり、道路や鉄道が通っているのだろう。

 眼下に市街地が見えてきた。海が東側にあるということは、四国の東岸の街ということである。徳島市だった。

 紀伊半島が見えたところで、再び雲が。前方を見れば、完全に雲で覆いつくされている。そして、とうとうどこを飛んでいるのか分からなくなった。

 しばらくして、アメとジュースのワゴンサービスがやって来た。暇なので、音楽を聴いたり、機内誌「翼の王国」を読んだりした。音楽では、ケツメイシの特集が組まれていた。そう言えば、沖縄旅行に行った時もケツメイシだった。青空と雲ばかりの景色に飽き飽きしてきた頃、ベルト着用サインが点灯した。そして、降下を始め、雲の中を突き進んだ。飛行機は若干揺れたが、恐怖を感じるほどではなかった。雲を抜けると、右手に海が見え、すぐ下には小さな町が見えた。道路に豆粒ほどの自動車が行き交っているのも見えた。東京らしい風景ではなかったが、もう少しなのだろう。その後、飛行機は一旦内陸部に入った。大半の山々は、ゴルフ場として開発され、はげ山になっていた。自然破壊は、朝飛んだ九州の山々よりもはるかに進んでいると感じた。

 飛行機は、市街地の上を飛ぶようになったが、都心部ではないらしい。前方に工場群が見えてきた。川崎のあたりだろうか。だとすれば、羽田空港はすぐである。そして、少し旋回した後、滑走路を捉えてぐんぐん高度を下げて行った。衝撃に備える。ゴン!という音とともに着陸したが、一瞬体が思わぬ方向に持ち上げられた。いや、横にずれたとか引っ張られたと表現した方が良いかもしれない。この“事件”は、後で同行した人たちと話題になったが、原因は「左側に引っ張られたから、右側車輪の接地が遅れたためだろう」、そして結論は「佐賀発着のパイロットは、操縦があまり上手じゃないのではないか」ということで落ち着いた。実際、開港直後には、佐賀空港に着陸する直前だった飛行機の機長が気を失うというあってはならない事故もあった。噂に過ぎないが、羽田―佐賀間は、新人パイロットの訓練路線と言う人もいる。帰りに乗るのが少し怖くなった。飛行機は、定刻より5分早い8:20に到着した。それにしても、わずか1時間35分で旅が終わるとは……。何とも味気ないものだった。無論、これは個人的感想であって、早稲田大学に文句を言っているのではない。飛行機で旅をすること自体が味気ないのだ。

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