A井深大記念ホール

わけあって、私は2007年(平成19年)10月13日・14日に東京方面に用事があり、開館初日の鉄道博物館に行ってきました。

 空港までは、都内に住む伯父が迎えに来てくれた。数年に一度は佐賀に帰って来られるが、従兄弟が寝台特急に乗りたいと毎回希望するらしく、最近2回の帰省は「さくら」「はやぶさ」利用だった。早稲田大学の集合時間は12:30なので、その間は自由行動となる。なので、私たちは大田区に住む親戚の家に寄ることにしている。大田区の町並みは、佐賀市の中心部と非常によく似ていた。わずか1時間40分で着いたので、まだ東京に来たという実感がなく、「東京都」や辺りを走る車のナンバープレートを見て、やっぱり東京なんだと確認してしまった。結局、人間が生活する上で必要な居住空間は、東京も佐賀も変わらないということである。  多摩川に近い親戚の家には、9時ごろに着いた。団地の上階で、窓からは多摩川がすぐ目の前に見えた。夏は、多摩川の花火大会が同じ建物から見えるのだという。羽田空港に近いが、意外と静かだった。30分くらい滞在した後、伯父にJR蒲田駅まで送ってもらった。伯父は忙しいので、これで帰らなければならないという。

 蒲田駅から京浜東北線に乗って品川まで行くことにしている。きっぷを買って、京浜東北線のホームへ。

 すぐに209系の電車が到着したが、どの車両も満員。時間に余裕があるので、次の電車に乗った。品川駅で山手線に乗り換えた。立つことになったが、思ったほど混雑していなかった。それにしても、山手線は加減速が激しい。油断していたら、体がよろけて握っていたつり革が“ギギギギ”と嫌な音を立てた。他の乗客は、このようなことには慣れているらしく、平然とした顔で音楽を聴いたり、雑誌を読んだりしていた。

 早稲田大学は、高田馬場駅で降りて地下鉄東西線で行けば良いのだが、荷物が多いので、新宿駅近くのホテルに預けてから行くことにした。私は、新宿駅前を歩くのが始めてで、人の多さに目が回るようだった。東京駅の方がまだ余裕があって地方から来た人も歩きやすいのだが。そして、歩道橋から上を見上げると、ぐーんと高層ビル群が……。ちなみに、佐賀市内だとマンションを除けば佐賀県庁の11階展望室が一般人の入れる一番高い建物である。

 ホテルに荷物を預け、きっぷを買い直して山手線ホームへ。電車はすぐにやって来た。しかし、上下電車とも進入速度が速く、必ず警笛を鳴らすのだ。過密ダイヤだから仕方ないのだけれども。

 

 高田馬場駅で東京メトロ東西線に乗り換えた。電車は、東京メトロのものではなく、乗り入れる東葉高速鉄道のものだった。3分で早稲田駅に到着した。そこから表示に従って歩く。ところが、「国際会議場井深大記念ホール」に向かうものの、なかなか大学らしい建物が見えない。太陽を見ると右手上方にあった。ということは、前に進むということは九段下の方向に向かっているということだ。つまり、早稲田大学とは逆方向である。仕方がないので、タクシーを拾った。確か国際会議場・井深大ホールは、都電の早稲田電停に近いと記憶していたので、運転手さんには「早稲田電停の近くまでお願いします」と告げた。タクシーは、逆方向に向かう。やはり道を間違っていたのだ。右折し、早稲田大学の正門前を通った。あたりを歩く人は、大半が早稲田大学の学生と思われる人たちだった。父が「この人たちは皆頭が良いのだろうなぁ」と言うと、運転手さんは「いえ、そういうわけでもありませんよ。スポーツ特待で来ている人も多いから」と返した。なるほど、と思ったが、スポーツで優秀な人も早稲田大学で勉学に励めるくらいの努力家だろう。大学は、個々人の特性が最大限に発揮される場所のようだ。

 簡単に昼食を済ませた後、ホール入り口の前で発表者の方々と合流した。発表者は、合計13、4人くらいだっただろうか。壁に書いてあったホールの名前をよく見ると、「井深 大ホール」となっている。後で説明されたが、「いぶかだいほーる」ではなく、ソニーの創業者である井深大(いぶかまさる)氏の名前を取って「いぶかまさるほーる」だという。だから、ホールはそれほど大きくはなかった。先にリハーサルがあるらしく、発表者だけが先にホールの中に入って行った。第一部のシンポジウムが終了する頃で、簡単に説明が行われた後、すぐにリハーサルになった。

 リハーサルが終わると、今日の作文発表を聞きにきた人たちがホール内に入ってきた。そして、第二部が始まった。最初は、早稲田大学の交響楽団による演奏だった。一つ一つの楽器は小さくても、楽団で、しかも間近で見るとかなりの迫力があった。その後、いよいよ作文発表である。最初は特別枠である佐賀県の中高生4人が発表することになった。ちなみに、私を含めた4人は、7月に佐賀市のホテルニューオータニで行われた関連の式典でも発表している。

 一人当たりの発表時間は3〜4分、原稿は1200字以内(応募時の規定では、1600〜2000字だった)。時間が経つのは早く、すぐに私の番が回ってきた。私の内容は、簡単に言えば「大隈重信の業績は素晴らしい。しかし、今の日本の政治は乱れている。大隈重信のような信念と先見性のある人物を見習うべきだ。私もそのような人物になりたい」というものである。その中で、私は「人口減少社会の中で、長崎新幹線を造る必要があるのか」という問題提起もした。東京の人にも、日本の端っこで起こっている、場合によっては全国規模の問題に発展しかねない長崎新幹線の時代錯誤な計画を知って欲しかったからである。

 発表している時は、緊張が最高潮に達したが、終わると風船がしぼむかのように普通の状態に戻った。佐賀県の発表者が終わると、続いて中学生の部、高校生の部の順に発表が続いた。早稲田大学の系属校の他、都内の区立中学校、遠くは新潟県や山形県から来た人もいた。どの発表者も私以上にテーマがユニークで、納得させられるものばかりだった。

 発表が全て終わると、発表者は全員ステージに登壇し、作文を審査した審査員の講評を聞いた。審査員は、各方面で活躍する方ばかりで、その中には芥川賞を受賞した、誰もが知っている作家さんもいた。私は、江戸川区の区長さんから講評を頂いた。その後、審査員以外の方からも講評を頂いた。

 続いてステージ上の台や椅子が片付けられ、早稲田大学のチアガール、チアボーイによる発表が行われた。応援団というよりも、むしろサーカスや曲芸師に近く、狭いステージ上で空中一回転をするなど、見る方を圧倒させる演技だった。

 その後、再び発表者はステージに上がり、作家さんから直接本をいただいた。これは、私が是非読んでみたい本のひとつだったので、嬉しかったし、発表に並ぶほど貴重な経験になったと思う。表紙を開けると、私の名前と作家さんの名前のサインが書かれていた。う〜ん、やっぱりこんなことがあっても良いのだろうか……。

 式典は、いよいよ終盤に入った。審査員の方々が壇上に上がって講評を総括し、今後の大学に求められる教育について意見を発表された。これが終わると、全てのプログラムは終了し、解散となった。

 以降は基本的に自由行動で、発表を聞きに来てくれた父の友達の方とその家族の皆さんと新宿まで帰ることになった。外は17時過ぎだというのにもう暗くなりつつあった。東京は佐賀より1000km以上東にあるので、日没時刻に違いがあるのは当然だが、不思議な感じがする。せっかくなので、早稲田大学の構内を通って地下鉄駅に向かうことにした。

 大学構内は、学生たちでいっぱいで、活気があった。まるで、大学だけでひとつの街を作っているようだった。「テロ特措法反対!」という横断幕もあり、やはり社会への関心はとても高いようだ。

 大隈重信の銅像前で記念撮影をしたが、その顔を見てもやはり自分の信念を貫き通した人らしい、きりっとした顔立ちだった。

 早稲田大学の正門まで来ると、都営バスが発車を待っていた。行き先は、「高田馬場駅前」。地下鉄駅まではまだ距離があったので、都営バスで高田馬場駅まで行くことにした。中ほどのドアから乗ろうとして、ふとドア横の表示を見ると、「出口」とあった。あ、そう言えば都営バスは均一料金なので「前乗り後降り」だった……と思い出し、慌てて財布を取り出して170円を払ってから乗車した。車内は既に満席で立つことになった。既に道を行く車はライトを点灯しており、街は夜に支配されつつあった。高田馬場駅近くの交差点も、佐賀駅南口の交差点によく似ていたが、歩く人の数だけはとにかく多かった。

 きっぷを買い、山手線ホームへ。E231系が入ってきた。ラッシュ時間帯だが、土曜日だったためか、思ったほどぎゅうぎゅう詰めにならずに済んだ。新宿駅西口のホテルに戻り、その1階にある喫茶店で30分ほど父の友達の方と談笑した。続いて、父の同級生の方と夕食を食べに行った。どこに行くとは決めていなかったので、ぶらぶら歩きながら店を探すことにした。既に真っ暗で、ネオンサインが街を彩っていた。

 新宿の大ガードをくぐる。歩道を歩く人は多かったが、よく見るとダンボールが敷かれていて、何と人が寝ているのだ。栄華を誇る都のように思える東京にも、こうした現実も身近に潜んでいるということである。

 父の同級生の方に付いて行くのがやっとで、スクランブル交差点を渡るときはもう目が回るほどだった。同級生の方が、「『笑っていいとも!』や大画面のテレビで有名なアルタは待ち合わせとして知られている場所だよ」と教えてくれたが、そこには人だかりがあるだけで、本当にこんな場所で待ち合わせができるのだろうかと思った。新宿駅東口から道を挟んだ向かい側にあるビルの上階の店に入った。席に着くと、すぐ目の前に新宿駅があった。何だかすごい環境であることは分かったが、腹が減っていたので食欲には問題なかった。

 2時間ほど食べ続けた後、21時過ぎに店を出た。さっきのスクランブル交差点を歩いていた時、同級生の方から「あそこの店の前が日本で一番地価の高いところだよ」と教えてくれた。見たところ、カボチャの並んだ普通の店だが、一体、一坪でどのくらいの地価なのだろうか。気になるところだ。私だけホテルに戻り、父と同級生の方はそのまま“二次会”に行ってしまった。さて、中間試験の最中なので勉強でもするかと思ったが、ここに来てどっと疲れが出てきた上に、テレビのリモコンを手にしてしまった。偶然にも「踊る大捜査線 THE MOVIE2」が放送されていたので、そのまま“見てしまった”。あ〜あ、これだからもう……。

 

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