A秘境駅ひとりぼっち
列車は、坂本駅で特急列車と離合し、さらに山奥へと入ってゆく。途中で球磨川を渡り、川は左手に移った。 下流の方はダムが多かったので、日本三大急流に数えられる球磨川らしくない車窓だったが、上流に進むにつれて川幅が狭くなり、茶色くにごった水がごつごつとした岩や石を洗っていた。 球磨川を再び渡ると、車窓はのどかな田園風景に変わった。人吉盆地は田植えが終わったばかりらしい。 11:52、列車は人吉駅に到着した。駅構内には、キハ31形の快速「九千坊号」や特別な絵が施されたくまがわ鉄道の気動車が停まっていた。 駅の窓口で、買い忘れていた鳥栖⇒佐賀間の自由席特急券を買った。もちろん、ナイスゴーイングカードが適用された。駅を出て、駅周辺を少し歩いてみた。狭い路地のところには小鳥屋があり、小さな鳥から鶏まで、様々な種類の鳥がいた。私の家で買っているのと同じ種類の文鳥もいた。やはり小鳥はかわいいものである。 駅に戻り、駅前の人吉駅弁「やまぐち」で420円の弁当を買った。これから行く大畑駅で食べるためである。12:40を過ぎた頃から、駅構内が騒がしくなってきた。どうやら、「いさぶろう3号」に乗る人たちらしい。だが、ここは一人旅の特権で、団体旅行者よりも早くホームに並べた。団体行動、特に添乗員が全てを仕切るツアー旅行ともなれば、こうはいかない。12:53、「しんぺい2号」が入線した。これが折り返しの「いさぶろう3号」となる。情報の通り、吉松寄りの車両は一般型のキハ140形だった。しかし、自由席は立ち席が出るほど混雑していて、その上2ドアだったので、全ての乗客が降りるまで時間がかかった。幸い、早めに並んでおいたので、ボックスを確保できた。しばらくして、私の座っていたボックスに、仲の良さそうな老夫婦がやって来て、「ここに座ってもよろしいですか」と丁寧に尋ねてきた。もちろん、「良いですよ」。「どこまで行くの」と奥さんが言って始まった会話は、列車が発車してからも続いた。「私は佐賀から来ました」と言うと、奥さんは「まぁそんな遠いところから。私は久留米の出身ですよ」と答えた。佐賀と久留米は目と鼻の先である。旅先で出身の近いもの同士が出会うと、どうしても親近感が湧いてくる。 列車は、25パーミル(1000m進むごとに25mずつ標高が上がる)の急勾配を上って行く。 そういえば、「いさぶろう」に乗ったのはスタンプを押すためだった―――ということを思い出し、普段から運用されているキハ47形リニューアル車の展望スペースに向かった。展望スペースでは、スタンプラリーブックに押している女性がいて、私が押すのはそれからになった。「いさぶろう・しんぺい」の欄にスタンプをペタッと押して、15個コンプリート完了。 だが、このスタンプラリーは、やや盛り上がりに欠けるように思う。一つは、設置駅が九州全域に広がっているということだ。これらのスタンプを「キーホルダー型ミニチュアトレイン」がもらえる10個以上集めるには、かなりの時間や資金が必要だ。二つ目には、これに合わせて発売された「九州特急フリーきっぷ」の値段が高すぎることだ。発売されているのは、2日用、3日用だけだが、いずれも2万数千円。金持ちでない限り、簡単に手を出せる値段ではない。使用ルールの酷似した「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」が突然発売されたことを考えると、その売れ行きが芳しくなかったのだろう。せっかくの20周年企画のイベントだが、期間が長いせいか間延びした感じもする。 このイベントは、むしろ以前行われていた「トレインピック21」のような列車内に設置ポイントを限定すれば、もう少し盛り上がったのではないかと思う。宮崎県内にも設置駅があるが、陸の孤島に近い宮崎まで行くには、かなりの費用と時間が必要だ。そうではなく、「にちりん」に設置すれば、大分の人も北九州の人も押しやすい。今回の企画は、旅行者にとってややハードルが高すぎたのかもしれない。 13:16、列車はスイッチバックとループ線を併せ持つ大畑駅に到着した。私は老夫婦から「気をつけてね」と見送られて、列車を降りた。もっとも、この駅では8分停車するので、山あいの秘境駅は8分間だけ賑やかになった。 13:24、列車は大畑駅を発車した。私は、誰もいない大畑駅に一人ぽつんと立っていた。列車がスイッチバックを折り返してエンジンを唸らせながらループ線に入って行くと、私は静寂という音の闇の中に放り出された。 少し駅前付近を歩いてみた。あたりは想像以上に山奥で、道こそ舗装されていたものの、朽ち果てた小屋があったり、蛇が棲んでいそうな石垣があったりと、そこには今までに感じたことのない不気味さがあった。 駅に戻って、人吉駅前で買った弁当を広げた。 あたりは鳥の鳴き声と木の葉のこすれる音、それにニイニイゼミらしい「チーン」という声、それにホームに湧いている湧き水の流れるチョロチョロという涼しい音以外は聞こえなかった。緑に囲まれた静かな空間の中で食べる弁当もなかなかおいしい。