A島原半島一周の旅
東大屋行きは、11:35、定刻に諫早駅バスセンターを発車した。市街地を抜けると、島原鉄道に並行してしばらく走った。そして、右手に曲がり、山を越えた。道は蛇行しており、車内放送で「この先、カーブが続きます」とわざわざ注意を促された。山を越えると、右手には海が広がった。なかなかの絶景だった。 小浜の温泉街で、部活帰りの高校生が10人ほど乗ってきた。温泉街のあちこちから湯煙が立ち上っていた。排水溝からも出ていて、これには驚いた。バスは、海沿いに崖のすぐ下の国道を走った。乗客は5人ほどに減っていた。 「次は加津佐、加津佐です」と車内放送が告げた。私は加津佐駅前だと思い、降車ボタンを押した。降りるときに、当然ながらきっぷを運転士さんに見せたのだが、運転士さんから「もしかして、加津佐駅前で降りるの?」と言われた。「そうですけど」と答えると、「そんなら次で降りらんと。このまま乗っとき」と言われ、バスは発車した。私のリサーチ不足である。13:10、バスは「加津佐駅前」に到着した。 早速、列車の撮影ポイントに向かう。その撮影ポイントというのは、「女島山展望台」と呼ばれる、加津佐駅のすぐそばにある岩の山で、俯瞰撮影できることで知られている。しかし、最新の情報によれば、崖崩れで通行止めになっているという。でも、もしかすると復旧されているのでは……というかすかな希望をもとに入り口まで来てみた。が、やっぱり通行止めで、荒れ果てた道には、落石がごろんと転がっていた。 そばの海には、11月なのにサーフィンを楽しむ人が来ていた。海は穏やかで、これが夏だったらなぁと思った。 気を取り直して、線路沿いの道を口之津方面に向かって歩いた。ちょうど良さそうなところがあったので、そこで列車を待った。10分ほど待つと、列車がやって来た。しかし、運悪く列車の上だけに雲がかかり、暗く写ってしまった。 加津佐駅の近くで1枚取って、駅舎に入った。 駅舎内のベンチには、旅行者のバッグが置かれていた。私と同じく、お別れ乗車をするのだろう。駅は無人駅だが、有人駅時代の名残なのか、窓口には「しばらくお待ちください」の文字が。この窓口が開くことは二度とないかもしれない。それゆえに、この表示はあまりにも哀しいものだった。 列車は、キハ2500−2508だった。車両を見ていると、「今こそ着工へ 九州新幹線西九州ルート」の張り紙があった。これを見て、私は「島鉄よ、お前もか」とつぶやいてしまった。このとき、私は島鉄への評価を下げたのも事実である。長崎県は、長崎新幹線を造る一方、県営バスを島原半島から一気に撤退させた。理由は、赤字路線だから。そして、それを島鉄バスに譲渡した。島鉄は、「新幹線を造るのに、何で地元住民の足であるバスは切り捨てるのですか」とむしろ怒るべきではないか。何をすんなり引き受けているんだ、と思う。新幹線の効果なんて、ほぼないに等しい。なぜ島鉄はそれをあてにするのだろう。なぜ島鉄は新幹線を造る一方、赤字を理由に撤退する長崎県の矛盾を突かなかったのだろう。旧型気動車を多く保有しているので、PR次第では乗客増につなげられるかもしれない。沿線で例えば「昭和の街づくり」を行う。本格的に取り組めば、映画やドラマのロケへの活用も見込まれる。 新幹線建設の推進活動に協力しても、島鉄にとっては何の効果もない。むしろ、将来的に「あんなものを造る必要はなかった。むしろ料金値上げや踏切事故の増加で不利益を被った」と言われるようになり、推進団体だった島鉄にも批判の目が向けられるだろう。島鉄以外の団体にも言えるが、長崎新幹線の推進に肩入れするのは、「損」である。 さて、列車に乗り込んで発車を待つ。発車時刻が近づくにつれて、乗客が増えてきた。しかし、大半は旅行者で、地元住民の利用は見られなかった。確かに、島原や諫早に出るには、島鉄バスが安い。時間的にも、あまり変わらないか、諫早に出る分には圧倒的にバスのほうが早い。本数も変わらないかバスの方が若干多い。廃止区間は島原外港―加津佐間だが、地元住民にとってはそれほど重要なことではないのかもしれない。沿線にはいくつか高校があるようだが、少子化や過疎化の激しいこの地域では、鉄道を運行できるほど乗らないのだろう。その上、廃止される一部区間は雲仙普賢岳の噴火関連による線路流失で多額の費用を出して復旧した経緯がある。廃止は、そうした災害復旧の痛手がまだ尾を引いていることも示している。 しかしながら、火山の麓を走るという宿命とは言え、廃止は残念な話である。島鉄は、雲仙普賢岳について解説する観光トロッコ列車の運行など、経営努力を行ってきた。ただ、今後も同様の災害が起こらないとは言えないし、江戸時代の噴火では島原の街ごと飲み込まれたという記録もある。災害をどのようにすれば最小限の被害でとどめられるのか。長崎県や沿線自治体と話し合っていく必要があるだろう。こう考えてくると、やはり長崎県は、台風の通り道であることやこうした火山を抱えているのだから、ますます新幹線に出す金なんてないはずなのだが……。 列車は13:57に加津佐駅を発車した。口之津、原城などの駅に停まりながら、海岸沿いに進んでゆく。今日は比較的見晴らしがよく、対岸の熊本県の山々も見えた。 やがて、進行方向左手の車窓には雲仙普賢岳が見えてくるようになった。 布津駅では、加津佐行きの対向列車と行き違いを行った。 布津を過ぎると、いよいよ車窓の主役は雲仙普賢岳になってきた。 雲仙普賢岳は、瀬野深江を過ぎたあたりが、一番よく見えた。災害から20年近く経つが、山肌は火砕流が流れた跡と思われる赤茶けた部分が大半を占めていた。月並みな表現だが、自然の恐ろしさを改めて感じた。だが、先ほども述べたように、火山の麓に列車が通ったり、人が住んだりする以上、いかに共存していくかが大事になってくると思う。噴火を止めることは誰にもできないのだから。温泉という恵みもそうした「共存」のひとつに位置づけられるかもしれない。 安徳駅の手前から高架区間に入った。事前の調べで、これは普賢岳の火砕流から復旧したものだという。付近の家々は、どれも新しそうなものばかりだった。やはり、火砕流の被害を受けたのだろうか。 列車は島原外港駅に到着した。ここから先は存続区間だが、私は次の南島原駅で降りることにしている。降りる準備をしていると、車内放送で「お客様にご案内します。南島原より先、島原、諫早方面にお越しの方は、前方に停車しています列車のお乗換えください」と案内があった。あれ?この列車は諫早行きじゃないの?と思っていたら、何と前方には旧型気動車(キハ20形)が停まっているではないか!降りて早速撮影した。キハ20形の2両は、乗り換えが済むとすぐに発車した。 南島原駅構内には、車両基地が併設されている。旧型気動車もいくつか留置されていて、島式ホームのそばには「三本ひげ」で有名なキハ20−06が停まっていた。 実は、この後、私は対向列車に乗って瀬野深江駅まで戻り、付近で撮影を行おうと考えている。その前に、一旦途中下車をして駅舎を撮影した。ある雑誌では、「木造校舎のような外観だ」と評されていたが、確かに独特なスタイルであった。 15:16発の加津佐行きが入ってきた。車内の乗客は比較的多かったが、やはり旅行者の姿が目立った。