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A雲上の夜

管理人にとって初めての海外。行き先は、南半球のオーストラリア。

 日本航空771便シドニー行きが出発するのは、63番搭乗口。長い長い通路を通り、時には動く歩道で休みながら向かい、ようやく63番搭乗口に到着した。

   一旦集合し、点呼が行われた。時刻は、20:30。飛行機の搭乗時刻まで時間があったので、30分間の自由行動となった。飲み物やちょっとしたお菓子を買う人は、売店へ向かった。私も、飲み物と、向こうが夏であることを考えて、汗拭きシートを買いに行った。ただ、ここで買った飲食物は、ペットボトル入りの飲み物であろうと飴玉であろうと、シドニーに着いて飛行機を降りる際に全て捨てなければならない。オーストラリアは検疫が厳しく、事前指導でも再三注意が促された。「味噌汁のもと」のようなインスタント食品でさえダメなのだという。そのため、ホストファミリーへのお土産も、食品は控えるように言われていた。

   店で、私は「午後の紅茶」と汗拭きシートを1袋買った。支払いは、こういうこともあろうかと持ってきていた「Suica」。Suicaはやっぱり便利である。持ってきても良いお小遣いは、合計2万円で、うち1万円は「日本円の現金」という条件だったが、Suicaに入っている電子マネーは対象外(多分・・・・・・)なので、オーストラリアで使う分のお金が減ることはなかった。

 再び集合した後、ついに搭乗が開始された。団体客なので、一般客よりも先に機内に入れた。座席は、3―4―3列で、私は右から3番目だったが、ここは交渉あるのみと窓際席のM君に「変わってもらえる?」と聞いてみた。すると、「いいよ」とあっさり承諾してくれた。というわけで、私は窓際の座席になった。

 21:25、飛行機は搭乗口を離れた。ターミナルをぐるりと回りこみ、煌びやかな誘導灯の輝く滑走路をしばらく走った。パイロットが見分けやすいように、わざと様々な色の誘導灯を使っているのだと思うが、何だか異世界の中を走っているような感じだった。あるところで少しの間停まると、飛行機は「キューン」という音とともに動き出し、急加速。ついに、生まれて初めて日本の土を離れる時が来た。誘導灯が後ろへ後ろへと、鮮やかな筋を描きながら去って行く。そして、大轟音とともに離陸した。高度を上げるにつれて、下の街がよりはっきりと見えてきた。道路を自動車のライトが流れて行く。遠くには、東京湾と思われる暗闇と、それを囲むかのように東京や神奈川の街明かりが続いていた。あのひとつひとつの明かりに、誰かが住んでいて、そこにそれぞれの生活がある。不思議なことに、私は何となく温かな気持ちになった。

 まもなく、飛行機は太平洋上に出た。どんどん日本の明かりが遠ざかってゆく。それを見ていると、少しの寂しさと不安を覚えた。旅程はそう長いものではないが、本当に帰って来られるのだろうか。心配性の私は、周りの同級生たちが備え付けのテレビをいじりながら騒いでいるのをよそに、一人黙って小さくなる日本を眺めていた。

 搭乗口を離れて30分。ベルト着用サインが消え、デジカメなどの電波を出さない電子機器の使用が可能になった。

   前の座席の背もたれに設置されているテレビをつけた。22時現在、飛行機はまだ日本のすぐ近くを飛んでいた。シドニーは、まだまだ遠い。でも、9〜10時間で着いてしまうのだから、速いと言えば速いのかもしれない。面白いのは、日本地図になぜか「Saga」(佐賀)の表示があることだ。東北地方には「Zaozan」(蔵王山)まであるし・・・・・・。

   客室乗務員の紹介の後、最初の機内サービスがやって来た。おつまみとジュースが配られた。客室乗務員は、半分が中国やタイの人らしく、独特の日本語で話していた。国際線の客室乗務員と言えば、花形の職業だから、相当給料は高いのだろう。私は何をしていたかと言うと、クラス文化委員の学校文集の仕事をしていた。もちろん、ボランティアである。私の学校の文集は、クラスメートの1人1人が35字以内でメッセージを書くというもので、それを文化委員が清書する。しかし、締め切りがぎりぎりだったので、やむを得ず旅の途中で書かなければなかった。

 揺れる機内でせっせと清書していた23時頃、「お食事でございまーす」と客室乗務員がワゴンを押しながらやってきた。「え?お食事??」。誰もがそう思っていた。なぜなら、飛行機に乗る前、たらふく食べたし、だいたいこんな夜中に食事が出るとは聞いていなかった。そうは言いつつも、客室乗務員が「2種類ありますが、どちらしますか」と聞かれると、皆それぞれ選んで食べていた。私は、パスタのセットを選んだ。急いで清書の原稿を片付け、セットを受け取った。

 腹は空いていなかったが、冷めないうちに、とすぐに食べ始めた。サラダは良かったのだが、パスタはちょっときつかった。食べたくなければ食べなくても良かったのだが、それだと結局この料理は残飯として捨てられるわけで、非常にもったいない。全部食べたが、やはり深夜になってから食事を出すというのは、少し考えて欲しいと思う。

 文集の清書が終わったものの、飛行機内の夜は初めてなので、なかなか眠れない。夜行列車であれば、規則的なリズムの中でいつのまにか眠っているのだが、飛行機ではそうはいかない。備え付けのテレビによれば、23:15現在、飛行機は高度10100m、時速964km、外気温−39℃、目的地までの距離6381km、目的地までの所要時間7時間3分、現地時間1:15。日本とシドニーの時差は、本来は1時間だが、現在シドニーはサマータイム(夏時間=オーストラリアではdaylight saving time/DSTという呼称が一般的)なので、1時間進んでいる。サマータイムは、時間を1時間進めた生活をすることで、1時間早く仕事を終え、1時間早く就寝してその分の電力消費を抑えるという。戦後数年間は、日本でも採用されていたそうだが、面倒だし、人々の混乱を招くということで中止された歴史がある。省エネのために再び取り入れようという声があるものの、早く帰れば、まだ暑い時間帯に各家庭で冷房やエアコンが作動するので意味がない、などの批判も根強く、賛否両論があることも事実だ。

 飛行機はどんどん日本を離れ、23:18現在では台湾とほぼ同じ緯度のところを飛んでいた。

2月22日(金)

 0:18、飛行機はサイパン島のあたりを飛んでいた。

 窓の外では、月が青白く輝き、海面を照らしていた。静かな静かな海。ポルトガルの探検家、フェルディナンド・マゼランは、これを「平和の海」と名づけた。これが英語の“Pacific Osean”や日本語の「太平洋」の由来になった。マゼランが名づけたとおり、太平洋は本当に穏やかで、平和の海という名に相応しかった。しかし、先の大戦で沈んだ船は、この穏やかな海面のずっと下に沈んだまま。サイパン島をはじめとする「平和の海」に浮かぶ島々も、地獄になったという。管理人の祖母の兄は、従軍中、この後に上空を通過するニューギニアで行方不明になったそうだ。当然、遺骨も戻ってきていない。どういう死に方をしたのか分からない。戦死なのか。病気で死んだのか。具体的にどこで死んだのかでさえ分からない。祖母に聞いた話だが、戦争が終わってしばらくして、兄の所属していた部隊の隊長が、部下を死なせたことを悔いて、わざわざ佐賀までお詫びに来たという。祖母が言うには、その隊長は部下に前線へ行かせて、自分は後方に残っていたのだろう、ということだ。また、祖母は若い頃、ニューギニアへお参りに行きたいと言っていたそうだが、高齢になってしまった今では、それも果たせそうにない。戦争は生き残った者にも残酷な傷跡を残した。

 飛行機は、雲の上を飛ぶようになった。月はよりいっそう美しく輝き、星はきらきら瞬いた。翼は、月光できらりと反射し、冷たい光を放っていた。それは、実際に見た人でしか分からない神秘的な光景だった。

 名前には、名前に合った状態が一番相応しい。高度1万m以上の上空から、心の中でそっと手を合わせた。

 備え付けのテレビでは、映画が鑑賞できるのだが、面白そうなものがなかった。3月だったら、「ALWAYS 続・三丁目の夕日」があるのだが・・・・・・。代わりにテトリスゲームをしていたが、ボタンの動作状況が悪かったので諦めて寝ることにした。夜中の午前3時、ふと目を覚ますと目の前を横長い物体が横切っていた。何だ?と思っていると、客室乗務員が棒を使って窓のカーテンを閉めているところだった。外を見ながら寝たので、カーテンを開けっ放しにして寝ていたのだ。だが、これで目が覚めてしまった。そもそも、エコノミークラスでぐっすり眠れるような場所ではなかったのであるが。

 4時を過ぎると、外が明るくなってきた。飛行機は既に南半球に入っているし、経度も日本よりは東なので、夜明けも早いのだ。月は西の空の低いところにあり、夜と変わらぬ白さで輝いていた。でも、夜が明ければ、空の主役は太陽に変わる。

   4:30過ぎ、日の出を迎えた。

 4:40過ぎ、「朝食でございまーす」と客室乗務員がやって来た。現地到着時間を考えれば、今頃出ても不思議ではないが、日本にいる時と同じ感覚だと、やはり早い。メニューは、チーズのパイと「明治十勝ヨーグルト」だった。なぜかスプーンとフォークはキンキンに冷えていた。

 5:30頃には、飛行機は既にオーストラリア大陸の上空を飛んでいた。下には農地や牧草地が広がった。いわゆる「オージービーフ」は、このあたりで育った牛の肉なのだろうか。

 6時前には、シドニーのすぐ近くまで来ていた。もっとも、現地時間は2時間進んでいるので、シドニーは現在8時前ということになる。

 歯磨きと顔を洗うために洗面所へ行った。トイレの前には既に何人かの乗客が並んでおり、順番がまわってくるまで時間がかかった。

 飛行機が旋回し、遠くに太陽に照らされてきらきらと輝くタスマン海が見えた。なぜ旋回したのか分からないが、降下するための距離を稼ぐためだろう。鉄道のスイッチバックやループ線と似ている。

 やがてベルト着用サインが点灯し、降下を開始した。高度を下げてくると、下の家々や農地がよりはっきり見えてきた。村と思われる集落のそばには、黒い点がいくつかあった。よく見えなかったが、もしかすると、オージービーフになる牛だったのかもしれない。

 街が見えてきた。自動車もたくさん走っている。ここで思い出したが、オーストラリアは左側通行だ。それにしても、シドニーは緑が多い。日本の街は、コンクリートとアスファルトに覆われているので灰色だが、シドニーは森の中にビルや家があるような感じだった。街路樹も青々と茂っていた。日本のように、道路のわきで申し訳なさそうに立っているのではなく、「オレは道路の主役なのだ!」と主張しているように見えた。これは、日本が大いに見習うべき点だと感じた。

 鉄道線路も見えた。意外と鉄道網が発達しているようで、路線の分岐点も見られた。電車は2階建てだった。まだ着いてもいないのに、この街は面白いと思った。

 飛行機はぐんぐん高度を下げ、空港を視界に捉えた。片側3車線の道路を走る車をかすめ、6:37、現地時間8:37、飛行機はシドニー国際空港に着陸した。着陸時の衝撃はそう強くなかった。さすがは国際線のパイロットだと思った。ところが、飛行機は滑走路を外れてしばらく走ったところで停止。機内放送が「現在、搭乗口がふさがっており、遅れが出る見込みでございます」と告げた。空港には、尾翼のカンガルーが目印のカンタス航空機がずらりと並んでいた。窓を通じて外の熱気が伝わってきた。今日はどうやら暑くなりそうだ。ようやく動き出し、飛行機は定刻より10分遅れ、7:05、現地時間9:05に到着した。パスポートやカメラ、財布などを確認し、席を立った。降り際、例によって客室乗務員から「佐賀県立○○○高校の皆様、長い旅お疲れ様でした。この旅が、友情を深め、皆様の一生の思い出になるよう客室乗務員一同、心より願っております」との放送があった。

 ついにシドニーに着いたのだ。機体から出て搭乗口へ向かう。熱気が包み込んだが、日本のようにむわっとした暑さはなかった。なお、以後の時間表示は、現地時間を基準としたい。日本時間は、マイナス2時間である。

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