H京都、きょうと、キョウト、Kyotoその2

春と言えば鉄道旅行。そこで、今回は、広島や京都など“四都”を走る鉄道を旅しました。

 実は、高校1年の国語(古典)の授業で、この清水寺が舞台になった「検非違使忠明」(宇治拾遺物語)を学習した。この話は、主人公・検非違使(けびいし:今で言う警察官のような職らしい)の忠明が、若者集団と喧嘩をして、追い詰められたあげく、最後は舞台から蔀(しとみ)という板を使って飛び降り、着地に成功して逃げる、というものだった。そのときは、「この本堂は平安時代からあるのかぁ」と思っていた。本堂にあった「国宝 本堂舞台」という案内板には、「平安時代の昔から構築されてきた」と確かにあったものの、よく読んでみると、「現在の舞台組みは、寛永十年(一六三三)徳川三代将軍家光の寄進による再建のままで」とあった。しかしながら、忠明は「飛び降りた」のだから、当時からこのような形の舞台があったのだろう。

 本堂には、お守りを売る売店があり、そこで「学業成就」のお守りを買った。さらに奥に行くと、その名の通り「奥の院」という、これまた舞台造りのお堂があった。まさに本堂のミニバージョンといったところである。ここがガイドブックでよく見かける本堂の撮影スポットらしい。

 それにしても、やはり日本の建築技術はすごいと思う。四百年近くも前に建てられた本堂に、これだけ大勢の人が乗っても耐え切れるのだから。もちろん、それには「木」そのものの特性も含まれているだろう。案外、最近発覚した耐震偽装された建物の方がもろいのかもしれない。

 この奥の院には、「ふれ愛観音」という金色の仏像(通天閣のビリケンさんに何となく似ている)が設置されており、触るとご利益があるのだという。私も、「百」の「五円」(御縁。でも、縁があって何になるのか?)ということで、105円を賽銭箱に入れて、他の人がするようにべたべた触ってみた。見た目以上につやつやしていて、気持ちが良かった(もしや、これがご利益か・・・!?)。 

 そこから先は下り坂になり、人もまばらになった。途中からは、京都タワーと京都駅の建物が見えた。景観論争で問題になっているが、確かに京都にはやや似合わぬ建物ではある。

 先ほどの奥の院では、本堂を横から見ていたが、坂道では正面から撮影することもできた。

 坂道をV字にカーブしながら、どんどん下って行く。

   途中には、この「清水寺」という名前の由来になった「音羽の滝」があった。その水は「延命水」とも呼ばれるらしく、多くの人が列を作り、柄杓でその水を飲んでいた。私も並ぼうかと思ったが、時間がかかりそうなので諦めた。

 本堂の真下に来た。ここから見上げるだけでもかなりの高さがあるが、今歩いている道は、崖の中腹にあり、底はまだ下の方にある。飛び降りたら、助かる確率はほとんどないだろうなぁ。

 途中に、中学生の社会科の教科書にも出てくるアテルイらの名前を彫った碑があった。詳しくは記憶していないが、平安時代初期にアテルイは蝦夷のリーダーとして、今の東北地方で朝廷軍と戦い、何度か撃破したものの、坂上田村麻呂に敗れた。その後、平安京に連行され、処刑されている。後で調べたところ、この碑は、平安京遷都1200年を記念して建てられたものだという。

 急ぎ足だったので30分ほどで1周してきた。清水寺のすぐ前にいる人数はさらに増えていた。

 一方で、往路でも使った茶わん坂の方はそれに比べると閑散としていて、歩きやすかった。

   ここからはバスで京都駅に向かう。清水寺最寄りの五条坂(清水寺)バス停で最初は待っていたが、3回待ちくらいの人数が並んでいたので、一つ手前のバス停まで歩き、そこから乗ることにした。こうすれば、1回で乗れるはずである。やってきたのは、京都市営バス100系統:急行京都駅行き。案の定、1回で乗れた。

   しかし、次の五条坂(清水寺)バス停からは、やはりどんどん人が乗ってきて、後ろへ後ろへと追いやられ、車内はぎゅうぎゅう詰めになった。もう無理なのに、市営バスの職員が「もっと奥に詰めてください」と促したため、もう手すりにつかまるので精一杯だった。その上、清水寺周辺は、坂を下りてきた観光バスやマイカーで大混雑しており、なかなか進まない。やはり、清水寺周辺は交通規制が必要だと思う。

   渋滞を抜け出したものの、信号で停まったり、途中のバス停での乗降に時間がかかり、京都駅のバスターミナルに着いたのは、乗る予定の新快速が入線する8分前だった。バスを降りると、急いで駅舎に向かった。

Iへ  

旅行記&特集へ

トップへ